

前まで使っていた携帯電話を見ていたら、簡易留守録が起動して、おばあちゃんからの伝言が流れ出した。
何回もここにもしつこいくらい書いてしまうけど、私はこの世にいる人の中で一番、自分のおばあちゃんを愛している尊敬している。
そして、切ないっていう気持ちをこの人と関わって一番強く感じた。
トラウマと甘美な記憶はほとんど同じだ。
前の携帯電話を見るとその時の辛く苦しい日々のことがリアルに蘇ってくる。
とんでもない、人に話せないような事が何度も起こった。
だけど、だいたい、悪い事が起きるときは、まさかこうなるはずじゃなかったなんてことはなくて、薄々予測がついている。
最悪の事態は避けられずにその時が来るのを静かに待っているしかないようなかんじなんだ。
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会ってよかったと思う人と出会うと、帰り道の足取りがありえないくらいに軽く感じて、何時間も歩いてしまう。会って良かったと思う人と会うと、窪塚洋介のことを思い出す。そう、ピースなバイブスなのである。
一時期、周りの人に感謝とか言ってる人のことが信じられなかった。そういう人が気持ち悪いとさえ思った。
ただただポジティブな人は、ある種の才能を感じる反面、宗教じみてて馬鹿じゃないかと思う。あまりそういう人に会った事はないが。
昔NHKをみてたとき、インタビューに答えていた女優の方が「毎日躁と鬱の繰り返しですよ。」というような事を言っていた。夜と朝が交互に行き交う様に、日々躁と鬱の繰り返しなんだ。
話す前に何話そうとか考えずに、自然と、自分が言いたかったことを自然に話せるように引き出してくれる人が少しだけ自分の周りにいてラッキーだ。
逆に、話したくもないことを無理して話すと自分がいったい何を考えていたのか、分かっていた場所から分かっていない所に簡単に飛び降りてしまうみたいで、後でとても後悔するから必要ないことは話さないようにする。
今自分の周りに生きる事に苦しんでいる人がいる。
他の誰にも話せなくて理解されないなら絶対自分に話してほしい。
毎日は躁と鬱の繰り返しである。皆が実は持っている(かもしれない)であろうそういう部分を忘れてしまうのだろうか。
もし自分の周りに困ってる人がいるなら、自分に言ってほしいし死んでほしくない。
少し前まで自分は、一日を終えることができず毎日を生きるのにエネルギーが足りなくて、とにかく一日を過ごすのが大変だった。それが9年くらい続いた。
しかしそれが過ぎて振り返ってみるとその毎日は宝物だったように思える。その時の気持ちは忘れない。
人と付き合うってかなりコンディションの良い状態じゃないとできない。具合が悪いと人に会う事なんてできない。
自分のコンディションさえ良ければ恋人は簡単にできるだろう。
鬱は甘えとか、そういう次元の話じゃない。甘え以前に現時点でその人が苦しんでることが事実。
病気を持ってるって、宝物を抱えてるってことだと自信を持って言えるようになりたい。少なくとも自分の場合はそうだったが、それを他の人に納得いくように話せるようにならないといけない。
こういう社会を作りたいとか言えたらかっこいいけど、社会を創るとか考えられない。まだ自分は何者でもないから。
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もう9月も下旬にさしかかっているけど、ようやく今年の夏が終わったという実感に至った。
毎年夏は暑くて苦しくて大変だった。一刻も早くこの状況から抜け出したくていつも眉間に皺を寄せていた。
今年の夏は今までとは違った。自分がまさかこんな状況に置かれるとは夢にも思っていなかった。
去年から今年にかけて自分が本当に変わった。というより1000こくらいある自分のうちまた新しい自分が発掘できた。
きっとこれからも正面から自分の中に取り込まなくてはいけない蓮生がある
善も悪も関係なく素直に受け止めていく 正面から取り込まなくてはいけない
もしそれが自分のなかでバイブレートしていけば、もっと自由な感覚が循環していく
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前使ってた携帯みてたら、留守電機能が勝手に起動して、おばあちゃんからの伝言が流れその瞬間から涙がとまらなかった。
おばあちゃんだよ。げんきでいるかとおもってでんわしてみました。
○○、おばあちゃん。おとうさんにりんご送るように伝えておきました。おわり。
この携帯電話がいつまでも壊れずに、おばあちゃんのこの声を聞ける限り自分はこの気持ちをずっと忘れずに持っていられると思った。
やっぱりスマートフォンには趣というものがない。携帯電話の閉鎖的な秘密っぽいところが好きだ。