2017年 07月 16日
軽井沢セレブの写真を送られ憂鬱になる の巻き |

先日軽井沢の友人から、セレブの天上界の集いのような写真が送られてきて、写真を見た瞬間にどことなく憂鬱になったんですよ。
そのあと友人のAさん(学芸員)に用事があって連絡したら、「いまからピザパ〜!」と、作家たちのごみごみしたアトリエでの人口密度の高い食事風景が送られてきた。(かわいい)
SNS、特にInstagramを見ると幸福度が下がるらしい。(http://www.bbc.com/japanese/39972594)
自分はいままでインスタグラムを見ても他者と自分を比べて落ち込んだり劣等感を感じるという感覚がわからなかった。写真の美しさ、センスの良さ、斬新なかんじがあるかどうか、というあたりに注目して他の人の投稿を見ていた。
でも、インスタ鬱みたいなものははっきり存在するのだということに、軽井沢セレブ写真を見たことではっきりと気がついた。
そして、自分と全く関わりのない世界に対しては劣等感を感じないのに、少しでも知ってしまった世界に対してはなぜか劣等感を感じてしまうのだった。
(私には、見知らぬ外国人に対してある程度オープンに接することができるのに、自分と同じ日本人に対してはなぜかクローズマインドで接してしまいがちな特徴がある。対象との差異が少なければ少ないほど、その違いが目について苦しくなってしまうということなのか。)
自分は軽井沢で働いていたから、軽井沢のいろんな人たちと知り合ってたまに遊んだりしている。それはすごく楽しい時間で、彼らのことを考えると本当に凄いなと思う。
お金があるだけじゃなくて、仕事もして社会的な地位もあり、地域での人間関係も潤滑、さらに人としても素敵な人ばかりだということ。彼らにとっては当たり前なのかもしれないそんなことが、自分にはどう転んでも叶えることができないという事実に苦しくなる。
しかし、仕事、地位、あとはたとえば家族同士での交流みたいなものができる潤滑な関係を築いていることに対して、そこまで羨ましいと思うこともないのだ。家族同士での食事会なんかは、気を遣いあって疲れてしまうことも多いし。
これは、学校からも職場からも家族からも何もかもから自由になる…とずっと考えている自分と、社会人としてバリバリ働いてちゃんとしていたはずの想像の自分が反発しあっている感じの表れである。
自由になる、といっても、規範を乗り越えるには規範が必要だとわかっている感じの表れである。
セレブな人達にも、アトリエで食事するアーティストにもどちらにもなんとなく属することができない。辻斬りのように少しずついろんな人と知り合って写真を撮っていくことしかできない。
by me1t
| 2017-07-16 02:43